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2006年01月24日
手順と理念
[日々雑感]
まぁ、誰でも書くからあまり書いても仕方ないのかもしれないけど、お騒がせな事件たちの話を聞いていると、法律にしろ何にしろどんどん「手順書」化していってるってのが問題の根源にあるなぁと感じてしまう。
理念というか理想というか、そもそも何がフェアで何がアンフェアなのかというのは、根本的には感情論であるわけで、「すき、きらい」「ずるい、ずるくない」の世界だと思う。機会を均等にするために、そうでなことをしたら罰則を作りましょう。あるいは、そうしていることを開示するための手順を決めましょうということでしかない。
手順書になってしまうと、「そうしていれば問題ない」あるいは「そうしなければ問題ない」という理解に繋がってしまう。明文化していくときの難しさであるわけですな。すべての可能性や危険性を記載して、そのときにどうしましょうということを決めていくことが、契約だったりするわけなんだけど、そもそもそれはどうしてだっけ…? という踏み込んだ議論にならずに、事例ばかりが積み上げられていく。
すると、その事例で規定していないことで、どうにかうまくやろうと思う人が出てくる。うまくというのが、仕事がうまく進むとか、人が喜ぶとかいう方向に進むならば、それはまったく喜ばしいことなんだけど、自分の利益を拡大化しよう、あるいは他人に対して損させてでもその原資を誘導しようってなことになっていくから話がややこしい。
それぞれ各自が持っている小さな捜査権や開示権(?)を、おかしいと思ったところできちんと行使しない…ということが、問題を大きくしているんだと思うのよね。
耐震強度偽装についても、いくら図面で、いくら計算で、それが問題ないという値が出ていたとしても、現場で作る人たちが、あれ?と思わないのかなぁと思ってしまう。そこで、上には逆らえないから…みたいなことで黙々と建物を作ってしまった人たちがいるわけで、小さな「おかしくないですか」という声を上げないことで、せっかく作り上げたマンションを利用されることなく壊さざるを得ないことになってしまう。
ここんとこ騒がしい商法改正についてもいくらか調べたり人から聞いたりしていると、どんどん自由に何でもできるようになっていっている。確かに規制緩和ということなのかもしれないけれど、「そもそもなぜ規制があったのか」という議論が十分に周知されているとは感じられない。規制を緩和すればかならず当時考えたリスクがおきやすくなる。それをどうやって回避するのかが、本人はもちろんだが、他人にとっても自己責任になっていく。
あるいは規制が残っている面にしても「形式的に書面を用意する」ことで、クリアされたことになってしまう。
作家の石田衣良さんが、今回の堀江さんのことを「渋滞した高速道路で路肩走行をしていたようなもの」という表現をしていて、感心してしまった。「緊急時には許されることだが平常時にそれをやっている人を見て、ずるいと思うけどすごいとも思う人が多かったのではないか」とのコメント。なるほどなと感心した。
小さな社内ルールなんかでも、ルール自体を作るうえでの理念はある意味崇高なはずだと思う。それがいま「何をしてはいけない」「何をするにはこれだけの書類を用意する」なんて話になり、打算的なデキレースや捏造はしないまでも特定の事例のみを取り上げて報告書を作っていくヤカラがいる。それもかなり多く。
ボクらが小さく声を上げ続けても「うるさい人」ということになってしまうのだけれど、それでも個人的には自分の範囲で声を出すことだけはやめたくないなとあらためて思わされる。
株価操作のための風説の流布がいけないというのだけれど、風説に載って利益を得ようと思った人たちの心はヨコシマではなかったのか。あるいは、上がり調子のタイミングの中で利益を確定した人たちは実体のない利益だから返還するのか。うまくいったら黙ってかっぱぎ、うまく行かないと人のせいにする…というのが、正しい一般庶民だっていうんならそいつらが余計に世の中を悪くしているんじゃないかと感じてしまう。
借金した保証金で株の信用取引したり、価格の確定していない株券を担保に別の株を買ったりした人が今回大きな損失を出している。払える金額、なくなってもよい金額の中で取引をしなかった人たちは、騙された善人ではないと思うんですよ。
広く浅く集めた資本を特定の目的に利用するというのは、税金だって何だって同じ理屈。それが個人に向かったらフェアではない。そのフェアでないことが責められるのは当然なんだけど、それに加えて「汗を流してどう」とか「製造することが崇高」という話に持っていくのも、それはそれでどうかと思う。
回転ドアにヒヤッとしながら声を上げなかったことが、結果的に小さな子供を殺したことに繋がり、逆に人が死んだことで後になって私も怖かった、おかしいと思ってたと後出しじゃんけんをする「庶民」達の醜さを相変わらず感じてしまう。
ひとりひとりが、思うだけじゃなくて言おう、思うだけじゃなくて書こう、と思うんだよねぇ。「丁寧にいえといったから丁寧に前文を読み上げて何が悪いんですか」と短い時間しかない国会答弁の時間をつぶす総理大臣と、どこが違うのか。「丁寧」という手順ではなく「丁寧」という理念で説明して欲しいといっていることを分かっていてあえてバカな振りをして、書いたとおり言ったとおりやってますよ、何が悪いんです? と言い返すようなことを正しいとは思いたくないなー。
形式主義的な発想は、何もかも停滞させてしまいます。何かするときに、形式になぜ則るのか、その手順はなぜ生まれたのか、ってなことにもう少しだけ思いを巡らせて行動してみませんか。
投稿者 akio : 2006年01月24日 10:29
