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2006年02月19日

価値に対する考え方

[日々雑感]

このところ考え込んでしまうネタが「価値」

辞書を引いてみよう。

かち 【価値】 - goo 辞書

(1)物がもっている、何らかの目的実現に役立つ性質や程度。値打ち。有用性。
「―ある品物」「―を損なう」「言及する―もない」
〔幕末までは「価直(かちよく)」が用いられた〕
(2)〔哲〕 善きもの・望ましいものとして認め、その実現を期待するもの。内在的なもの・手段的なものなどにわかれるが、特に、真・善・美など、普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値をいう。
(3)〔経〕 商品の価格の背後にあって、それを規定しているもの。その本質・源泉のとらえ方によって客観価値説(労働価値説)と主観価値説(効用価値説)とが対立する。

とのこと。

例えば働いた価値、あるいは好意を持つ価値。これらは結局、すべて相手が決めることなんだなぁと実感することが増えてきた。当たり前なのかもしれないけど。

自分が何かをするときに、自分なりにその行為の価値というものを考える。それは、喜んでもらいたいとか役に立ちたいといった結構しょーもない青臭いものだったりする。ま、しょーもないものが原因であるからこそ、ある意味真剣にシミュレーションをするんだけどね。

そして相手にプレゼンテーション。自分は価値があることをした(またはする)と思い込んでもいるわけですから、熱意を持って実行したり説明したりする。…が、相手にしてみるとそれに価値を感じるかどうかはまた別問題なわけです。

また、価値を感じたときの反応もこれまた人によって違うわけですね。実はすごく役立ちそうと思っているにも関わらずじっくり考えて反応を返したい人、価値があるか分からないけど相手の熱意を喜んで価値があるかのように反応を返してしまう人、人それぞれ。

その反応を見て、相手が受け取った価値の大きさを読み取り、自分が渡したと思っている価値との差に驚いたり悲しんだり喜んだりする。ま、基本的には自分が思う以上の価値を感じてくれたらそれはうれしいし、逆は悲しく思ってしまうものだったりする。

が、結局のところそれ(相手の反応)が結果であり、価値があるかもと思っている自分が実は単なる思い込みだったり、善意の押し付けだったり、勘違いだったりするわけです。反応の裏にある本心は、これまた想像しても仕方のないことなので、見えるものを見て判断するしかできないのも事実です。

自分が大切に思っているものを「渡してもいい」と、万感の思いをこめて伝えたところで、その「大切に思っている」というのは自分の気持ちに過ぎず、相手からは単なる権利だったり物品だったり知識だったり知恵だったりする。もちろん獲得に必要としたコスト(=金額)の大小でそれは想像できるものかもしれないけれど、いったん消費した金額によってえた「権利」「物品」「知識」「知恵」はすでに流通性を持ってはいないわけで、一時の価値を目安として表したものでしかない。あくまで取得原価であって、時価ではない。

という意味で、一緒に先を考えるなんていう想いは、言ってしまえば共同幻想に過ぎず、…というか「共同」と思っていること自体が幻想なわけで、なくて当たり前、あったらラッキー程度にしとかないと、心が持たなくなっちゃうんだろうなぁと感じるこのごろ。

リスクヘッジは最後は一人で考えるべきことなーんてことは、そもそも分かっているわけですから、「それ」があると信じるのではなく、「それ」があったときにあったと喜べるように、考えるのがよいことなのでしょう。そして「それ」がなかったとしても問題が起きないよう考えるのは、やはり自分ひとりでってことなんですな。うん。

自分も含めて、過去経験し考えた事柄は、考えたことがある分だけ人よりアドバンテージを感じる部分。そのアドバンテージ分を理解する努力をしてくれるか、あるいはそのアドバンテージを価値と感じてくれるかを相手に求めてはいかんということなのだと、肝に銘じようと思うのでありました。

投稿者 akio : 2006年02月19日 23:23

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